子供が出来ると偉くなる。
こんな勘違いをしているのはおれだ。
子供は1人。
オーストラリアで生まれた貫介という名の11歳の息子。
父親のDNAを色濃く引き継いでいる。とよく言われる。
直接言われたことはないが、裏では義父がうちのDNAはどこに言ったんだ?と言っている。
そんな息子は内面も親父に似ている部分がある。
というのも息子に対して、何かを注意する時にそれに気が付く。
例えばこんな時。
息子が宿題を放置して動画を見ている時。
やることをしっかりやりなさい! 優先順位を間違うんじゃない!
もしくはこんな時。
ダラダラしていないで、しっかりと先のこと、物事を考えなさい!
さらにはこんな時。
自分の好きなことばっかり出来ると思うなよ!もう赤ちゃんじゃないんだから。
11歳ともなるとこちらの言うことは全部理解している。
毎回おれが息子に対して何か叱咤する時には自分に言っているような気にさえなる。
なぜなら、おれが出来ていないことを、偉そうに息子に言っているから。
言った後に決まって自分に問う。
まずは自分がやってみろよ。という話だ。
最近、自問自答することがある。
『親だから偉いのか??』
確かに30年程度の人生経験の違いはある。
だけど、その人生経験の差からアドバイス程度こそ出来たとて、そんな偉ぶることは出来ないんじゃないか?と思えてきた。
さらには自分の言動で気づいたことがある。
息子は週に一度、土曜日に日本語の学校に通学している。
親の、特に父親のおれの意向が強く、日本語も必須と日本語の学校に入学させているのだ。
昔は誰か友人や知人に話をするときに、息子を土曜日の日本語学校に通わせている。と言っていた。
でも、この言い方に最近おかしなニュアンスを覚えている。
確かにある程度の方向性は親が決めているのは事実。
でも『通わせている』というよりも『通ってもらっている』といったほうが正しいんじゃないか?
だって、息子は日本語を学びたいなんて一言も言っていない。
『通わせている』というのも間違いではないのだろうが、一方的なものよりも親がある程度方向性を決めつつも、子供もある程度納得し、ならやってみようか。という言葉のニュアンスで、双方が納得していて、且つ親としての立場であるおれが発するべき言葉は、『通ってもらっている』のような気がしてきたのだ。
こちらが変わらないと相手も変わらないとはよく聞く話だ。
最近、このあたりは気を付けている。
成長してきた10歳を超えてからの息子を見ているとおれに出来ないことが沢山出来るようになってきていることに気が付く。
ローカルの学校で完全に英語の授業を受け、友人とは国籍問わず英語で会話しているそんな息子の英語力は両親のそれをはるかに凌ぐ。
こちらに在住していながら恥ずかしい話なのだが、息子が友人と話している現地での生の英会話は理解出来ない部分のほうが多い。
11歳なので、興味の対象はブレることもあるがそれも思春期の男子としては平均的なものだと思う。
でもそんな興味の中でだって、親の知識を凌駕するものは沢山ある。
動物のこと、レゴのこと、ゲームのこと、今流行りの動画、英語のこと等々。
息子よりもいくらかの人生での経験を積んでいるが故、何とか効率よくうまく出来ているというだけなのでは?と思えてきた。
そしてそんな経験があるから、自分の息子だから偉ぶっているんじゃないか??
息子への叱咤、叱責の前に自分への問いかけも必要だと感じる今日この頃。
初めてのことはもちろんうまくいかないことが多い。
失敗したら、今度はそれをどうやったらうまくいくのか。あぁしようね。こぅしようね。と言う『アドバイス』が正しい気がしてきている。
自分ならそれを求める。
11歳というまだ若い年齢だが、1人の男として尊重し、尊敬し、時に平等に対峙出来る存在になってきている。
子育ては時にそうはいかない。事前に準備しても予定通りいかない。ことのほうが多い。
指摘すると逆ギレする。それに対して、こちらもなんなんだ。その態度は??と思っていたが、これは親父としての威厳を見せられていない証拠と受け止めるべきなのかもしれない。
勉強に対して乗り気でない姿を見たとき、思わず口が先に出てしまうが、自分が子供だった時はどうだったんだ?
自分だってファミコン優先だったでしょうよ。という話だ。
1つ許しを請うとすれば、こんなところだろうか。
『親も子育ては初めてなんよ。』
色々と至らない点があると思うけど、これからもよろしく頼むよ。
まぁ、自作のザリガニレゴ、すごいと思うよ。
すごいと思うけど、髪の毛はそろそろ切りなさい。
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